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「いい塩をつくりたい」
〈4〉



前回のあらすじ
一九七一年、化学精製塩が専売となり、各地で自然塩復活運動が立ち上がった。その運動のリーダーは谷 克彦氏であった。一九七二年、沖縄で「第二回塩づくりワークキャンプ」が運動の一環で行われ、幸信はそこで運命の出会いを果たすことになる。恩師となった谷氏との出会いであった。

谷氏と再会
沖縄で行われた「第二回塩づくりワークキャンプ」は、台風にたびたび見舞われたりして確かな成果は上がらず終了したが、幸信は、自然塩復活運動のリーダー谷氏と出会うことができた。
この頃から、谷氏は、「タワー式製塩法」という太陽熱と風だけを頼りにした完全天日による新しい製塩方式を研究したいという希望を持っていた。この谷氏が考案した「タワー式製塩法」は、地球から石油が枯渇してしまう時代が必ず来ることを予見したアイデアであった。
火力を用いない完全天日での製塩のため、出来上がった塩に海水と同じミネラルバランスでミネラル分が多く残る塩(にがりを含んだ塩)ができるというメリットもあり、さらに今までの塩田方式では、採れたかん水を釜で炊いて塩にするため、大量の燃料が必要とされたが、その燃料がいらないばかりか、広い用地も、重労働であった労力も少なくて済むという極めて効率のよい製塩法であったが、この製塩方法はまだ谷氏の机上の案であって、これを実現させるためには、まず実験から始めなければならなかった。
谷氏はこの実験のためには、気温の高い沖縄が適していると考えていて、再び沖縄での実験を行うことになった。そして、一九七五年の六月末、幸信は谷氏と沖縄で再会を果たすことになるのである。これが、幸信が後々塩づくりの道に進むことを決定付けたといっても過言ではない。
沖縄・読谷村都屋で実験用塩田をつくる谷氏と幸信

天日製塩の研究実験
まずこの研究実験のために、沖縄・読谷村都屋の海岸近くの土地七百坪を借り、そこに五十坪の入浜式塩田をつくり、五メートルのブロックタワーを二基立てることになった。
しかし、借りた土地はジャングル同然で、まずそこを開墾し、整地し道もつけなければならなかった。そのためには多くの人手が必要であった。谷氏は、人手を集めるため前回のキャンプでリーダー役を務めた幸信と相談して、「第三回塩づくりワークキャンプ」を開催することにした。
急遽集ったキャンパーは、始めこそ三十人あまりが集ったが、ほぼツルハシとスコップだけで進められる炎天下での過酷な手作業に、次第に脱落者が増え、最後には谷氏と幸信だけになってしまい、二人きりで作業を続けるしかなかった。
二人とも塩田を作った経験がまったくなかったので、旧塩田跡の廃虚を見たり、沖縄にいる経験者を訪ねて回ったが、沖縄では地方によりやり方が様々であることを知り、結局は二人で工夫するしかなかった。真夏に照りつける沖縄の太陽は強烈で、塩づくりには適していたが、炎天下での作業は過酷を極めた。それでも実験を成功させたいという気持ちが体力の限界まで働き続けさせ、作業はたびたび夜まで続けられた。

毎夜の「塩談義」
その日の作業が終わると毎晩のように泡盛を酌み交わしながらの「塩談議」になったが、話に熱が入ると朝まで続くこともしばしばだった。
この頃の二人の塩づくりへの熱い情熱は想像を超えていて、幸信はこの「塩談議」で塩について多くのことを学んだ。
谷氏は、立命館大学理工学部数学物理学科(原子核物理学専攻)を卒業した学者で、数字にはめっぽう強く頭は切れたが、手先は余り器用ではなかった。そのため施設の建設作業や、タワーの構造については幸信が中心になり作業を進めた。
五十坪の塩田は、一か月以上もかかって完成した。二人は、泡盛で乾杯した。
ポンプで海水を汲み上げ、撒き砂の上に海水を撒き、砂に塩の結晶がつくまで天日で干し、砂を集めて海水をかけ、かん水を採った。これを煮詰めると、初めて七キロの塩ができた。その後作業が上達するにつれ十七キロほどの塩が取れるようになった。出来た塩は近所の家々に配った。
タワー式製塩の実験は、穴のあいたコンクリートブロックで高さ五メートルのタワーを二基作り、海水を上から流し込んだ。海水が流れ落ちる途中、太陽熱と風で水分が蒸発して塩分濃度五%に濃縮されたかん水になった。これをもう一基のタワーに流し込むと塩分濃度十五%のかん水が採れた。これは海水の四倍の塩分濃度になったことになり、これを天日に干して塩が出来上がった。
このタワー式製塩法が、後々の幸信の塩づくりの原型となるものであった。

(取材・構成/本誌編集部)


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