“雪の如く白い粒状の焼塩”と賞賛された壷焼塩は、その繊細な塩味をめでた京の女院御所(徳川秀忠の娘、東福門院)より承応三年(1654)、「天下一」の称号を与えられた。延宝七年(1679)には美名「伊織」を鷹司殿より賜っている。これにともなって、焼塩壷の刻印は、「ミなと藤左衛門」から「天下一堺ミなと藤左衛門」、「天下一御壷塩師堺湊伊織」へと変化した。堺商人たちの茶懐石でつかわれた壷焼塩が、京都の上流階級の間で高く評価され、その淡白な塩味が京料理のかたちをつくったのである。百年の歳月を経て、堺の壷焼塩は京から江戸に伝わり、懐石料理を演出した。素材の持ち味を活かす軽やかで繊細な塩味、微妙な塩加減ができる壷焼塩は、きっと“利休好み”であったにちがいない。
江戸後期になると、江戸の湾内で獲れる魚介類を調理した江戸前の天ぷら、鰻、刺身、すしの屋台が繁盛、庶民の間に、もうひとつの江戸の新しい食文化が生まれた。
そして、料理本が大流行し、これまで料理人の口伝であったレシピ、料理法が広まり、大名に召抱えられていた料理人が八百膳などの高級料亭に雇われるようになると、東西二つの料理が融合して江戸独自の食文化が爛熟していった。料理屋で文人が集い、俳句、書画、陶器を鑑賞し “粋”や“遊び”を楽しむ、そんな彼らの宴の余韻を残すように、いま眠りから醒めた焼塩壷が江戸のロマンを語り始めている。
指導・出典 名古屋大学名誉教授渡辺誠先生 論文「焼塩」
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