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倉敷の友達と電話で話しながら「お母様いかが?」と訊いた。九十歳近い母上は、最近は寝たり起きたりが続いていた。彼はちょっとトーンを落として、
「母は入院してるのよ。流動食なんだけど、お寿司が食べたいって言うんで少し食べさせちゃったの、食べたいもの食べた方が元気になるでしょ。秘密よ」
「わかるわ、それ。家族だって反対する人いるから。でも病人だって食べたいもの食べたほうが生きる意欲が出るから、上げたほうがいいのよ」
「姉なんかが聞いたら、とんでもないって言うと思う。でも白身のお魚とか、いいお寿司屋のよ」
お母様大事の彼が、にぎりをそっと口にいれてあげる様子が想像できた。

私にも経験があった。九十八歳まで長生きした父が、まだ七十歳代に前立腺の手術で入院した。外科では評判の高い小規模な病院で、お食事もいいといわれていた。でも父にはもっと食べたいものがある。

外国では、外科的な手術の翌日、ステーキが出るのはよく聞く話だ。病院だからといって、日本式におかゆで弱々しい食事をするのでは、病人の体力が回復しない。これは日本と欧米の病院をわける不思議な溝だ。なんて頭があったとき父が、
「ステーキが食べたい」と言った。「病院の食事はまずいの」
そりゃそうだ。父は健啖家で、ステーキやうなぎ大好き。病院食では満足しないはず。パパっ子の私は彼の望みはなんでもかなえたい。わかったわ、と二つ返事で、いちばん近い東京ヒルトンに電話した。いまのキャピトル東急だ。ステーキは冷めるからローストビーフを注文し、クルマで一走り。分厚いそれを、父はゴキゲンで食べ、私はにんまり。
ところが食べすぎたらしくて、その晩戻してしまった。さすがの私も、料理の強さや量に注意しなくちゃと反省した。だから友達の心配も理解できた。

いま高齢社会はまっさかり。私たちは、親や祖父母やシニアの友達が毎日、そして入院すれば病院で、おいしい食事をしてるかどうか、気にかかる。
私も父が九十八歳で入院したとき、少しでもよくなると「パパ、よくなってるのよ、じき鰻がたべられるわ」と慰めた。彼はうれしそうにうなずいた。
好きな食べ物は、病人を鼓舞する。入院患者は、この限られた空間から出ることができない。一種、囚われ人の暮らしだ。去年は、友達が何人か入退院をくり返したから、私は病院の食事って何だろう? と気になり出した。お見舞いに行って、テーブルにある一週間のメニュをみると「こんなお献立?」と同情する。栄養は考えてあるのだろうが、いかにも田舎風で工夫がない、フレッシュな野菜が少ない、サラダがない、町の安食堂みたいな食事だ。


患者への案内も愛らしい病院、食事もおいしい


そこで私は、入院食のメニュを数ヶ所から集めてみた。朝昼晩とも、AとBの二種類から選べるようになってるのは進歩かも。色刷りの献立表もある。でも見ていくと、基本的に日本のお総菜式の食事で、働き盛りの男向き。洋風の食事をしている人には口にあわない――つまり入院したら暗澹とするメニュなのだ。簡単に紹介すると――

Aは朝がパン、はちみつ、ウインナーと野菜のソテー、フルーツ、ミルク。お昼が中華ランチでご飯、酢豚、海老チリソース、春雨にキュウリやもやし。夜はご飯に子持ちカレイの煮付け、青菜、シジミのみそ汁。里芋の煮物、昆布の佃煮。
Bは朝はみそ汁、アジの干物、野菜のソテー、薄塩のたくあん、ミルク。お昼はチャーシュー麺と海老チリソース。デザートがA、B共に杏仁豆腐。夜はAが鮭の塩焼きにかき玉汁。Bが擬製豆腐にサラダ菜、ミニトマト、シジミのみそ汁。両方に、肉ジャガ、ほうれん草のおひたしがつく。

別の病院のはもっと簡素で、朝はA、B、パン食三種とも、金平ごぼうと京風五目豆腐。違いは金平がゴボウか、大根かだけ。パン食は海老のムース五十グラムがつくけれど、五十グラムはネコの餌、一食分もない分量だ。
お昼はAがソース焼きそばとワカメの酢の物。Bが大根と里芋のミートソースかけと春雨の酢の物。パン食は「焼きそばドッグ、野菜ドッグ」がメイン。ホットドッグ風に焼きそばを挟む? おぞましい!
夜はAがサバの塩焼きに松葉しぐれ、Bがロールキャベツケチャップ煮(!)、カブの含め煮。パン食は鮭ムニエル、野菜盛り合わせ。麺を選ぶと、なめこそば、サバの塩焼き。
愕然とした。ウインナーソーセージは幼稚園児の好物だけど、おとなが食べるものじゃない。しかも朝から! ケチャップはいい料理には使わない。夕食にカレイの煮付けや鮭の塩焼き、たくあん、佃煮、里芋の煮物や肉ジャガは、まるで独身寮の食事だ。

グルメ時代は病院とは縁がないのか? 栄養士は家庭で何を食べているの? 家でおいしい料理を食べていれば、こんな献立になるはずがない。醤油や煮物や炒め物ばかりの食事で、病人の食欲はそそられない。だから入院すると家族が料理をはこぶことになる。日本の病院の昔からの姿、変な話だ。

病人には、病院が出す食事がすべてだ。それだけで食欲が出て、おいしく食べ、元気づく食事を出して、欧米の病院に近づいて欲しい。私はお産で四十年まえ、アメリカと日本の病院を経験し、後者は外国の患者も多いところで、どっちも不満はなかった。家庭と同じ程度の食事ができたからだ。
朝はトーストに果物、ジュース、卵、珈琲紅茶。昼夜はハンバーグやチキン、マッシュドポテトやグラタン、パイや野菜のスープ。単純でいい、でも家庭的な料理を普通に出す、なぜそれができないのか?

病院は収容所ではなく、医療を提供するサーヴィス業だ。予算の問題、厚生労働省の基準、慢性病への配慮など大変だろうが、私立小学校の給食メニュはもっといい、せめてそれ並みにならないか。固定観念を捨てれば、オーヴンやオリーヴオイルを使って、おいしい料理を能率よく作れるはず。栄養士に勉強と発想の転換が必要だ。勤め人の昼食か寮のような献立では、高齢社会の患者は元気にならない。患者をリフレッシュするのが入院食の役目だ。


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