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一般的な家は、家の中の一番よいところに応接間を配置するようだ。僕もよく他家を訪れるが、必ずと言ってよいくらい応接間に通される。ま、昨今は、住宅事情ということから、マンションなどの場合が多いが、それでも食堂にいきなり案内されることはない。やはり、立派な皮張りのソファーを置いたリビングに案内されるだろう。

ところが、僕はこうした仰々しい場所が大の苦手なのである。何だかよそよそしくて、息が詰まりそうになってしまう。出来れば、ホステスである奥様が、カウンター越しにお茶を手渡して下さる方が、格段に落ち着く。一番嫌なのが、日本間に通されてお茶を出されて、挙げ句の果てに出前の寿司が出て来ると、いけないことだが逃げ出したくなる。過去にこのような状況に遭遇して、急に仕事を思い出したことが何回かある。

他人の好意をむげにしていることとは、重々分かっているのだが、どうにも我慢出来ないのである。という次第で、僕は絶対に応接間は持ちたくないし、どんなことが起ころうとも、今後設けることはしないだろう。客を招くとしたら、台所へダイレクトに呼ぶ。現在の家でも、出来るだけダイニングキッチンへ来てもらい、食卓を囲んで話を交わしている。よく、客に見苦しいところをお見せするのは失礼、と言う方も居られる。その心理が、僕には分らないのである。

ま、勝手にすればー、と、笑って見過ごして頂きたい。と同時に、我が家にもし訪れることになったとしたら、焼き魚の煙りが濛々と立ち篭める台所に通されることを覚悟して頂きたい。残念ながら、現在のキッチンは八人が入ると一杯になってしまう。

そこでそんな時は、ぐだぐだとテレビを観賞する為にだけある食堂の続き部屋の板の間に、何とか十人くらいの人が胡座がかける場所を作り、まるで相撲部屋の食堂のように座って頂き、そこで鍋を囲むようにしている。


Kubota Tamami


そんなことで、今後建てるだろう家の台所には、十二人位が座れるテーブルを置きたい。その為に、北海道の石狩川の河川工事を行なった際に、川底から掘り出された神代木を買い集めて寝かせてある。ニレとかセンといった木なのだが、約千年の間川底に眠っていた為に、白木が水中の酵素の働きで緑色に変色してい て、まことに美しい。

そんな木で、テーブルを作りたいのだ。これが実現出来れば、最高の贅沢ではないかと考える。だからこそ、応接間ではなく台所に大切な客人を迎えたいのである。

大きなテーブルにどっかと座って頂き、目の届くオープンキッチンで客の顔を見ながら料理を作る。客には、出来立ての熱々の料理を食べて頂くことが可能である。昨今、巷の料理屋さんでも、こうしたオープンキッチンの店が多々存在する。しかも、料理をしている様子が手に取るように分る。これは、客にとってもメリットがあるし、またシェフや板さんも客の食べ具合を測りながら料理が作れる。こうした相互の一体感が、僅かな食事の時間を充実させて呉れるものと、僕は思っている。

言ってみれば、料理はショーでありパフォーマンスではないかと考える。食べる側は、そのマジシャンの手際のよさに引きずり込まれるのではなかろうか。だから、客と作り手は、なるべく近い方がいい。残念ながら、現在の僕にはそこまでのテクニックはない。が、意欲と客を煙にまく話術はある。だから、残りの人生を、こうした場を有効に使って楽しく生きたいのである。僕は、いい台所こそが、最高の応接間であると、信じて疑うことがないのである。


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